生物多様性保全がビジネスを変える
自然資本経営の新展開

ネイチャーポジティブ2030・TNFD対応
自然と調和した価値創造モデルの確立

ネイチャーポジティブ経営と自然資本統合

ネイチャーポジティブ経営の基本概念

ネイチャーポジティブ(Nature Positive)は、2030年までに生物多様性の損失を停止・反転させ、自然環境の回復軌道に乗せることを目指す国際的な目標として、気候変動対応と並ぶ企業の重要な責務となっています。この概念は単なる環境保護活動を超越し、自然資本を企業価値創造の重要な要素として位置づけ、ビジネスモデル全体に統合する経営アプローチを意味します。

2022年12月に採択された昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)により、2030年までに陸域・海域の30%を保護区化する「30by30目標」が設定され、企業の自然資本への取り組みが一層重要性を増しています。この目標は、生物多様性の保全と持続可能な利用を通じて、人類と自然の共生を実現する包括的な枠組みを提供しています。

自然資本と生態系サービス

自然資本とは、森林、湿地、海洋、土壌、大気など、人間社会に恵みをもたらす自然資源とそこから生み出される生態系サービスの総体を指します。これらのサービスは、供給サービス(食料、水、木材、繊維など)、調整サービス(気候調節、水質浄化、災害防止など)、文化サービス(レクリエーション、精神的価値など)、基盤サービス(栄養循環、酸素供給、土壌形成など)の4つのカテゴリーに分類されます。

世界経済フォーラムの分析によると、世界のGDPの半分以上(約44兆ドル)が自然資本に中程度から高度に依存しており、自然資本の劣化は深刻な経済リスクを内包しています。このため、企業は自然資本への依存度と影響度を正確に評価し、長期的な事業継続性を確保するための戦略的取り組みが不可欠となっています。

TNFD枠組みと開示要求

企業の自然資本への依存度と影響度の評価は、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)フレームワークの普及により標準化が進んでいます。TNFDは2023年9月に最終提言を公表し、企業に対して自然関連リスクと機会の特定、評価、管理、開示を求めています。

このフレームワークは、TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)と同様の4つの柱(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)から構成され、自然資本に関する財務的に重要な情報の開示を促進します。自然関連リスクは、物理的リスク(急性・慢性)と移行リスク(規制、市場、技術、評判)に大別され、企業の事業活動に多面的な影響を与える可能性があります。

実践的なネイチャーポジティブ戦略

実践的なネイチャーポジティブ経営は、「回避・最小化・修復・創出」のミティゲーション・ヒエラルキーに基づいて実装されます。まず、事業活動による自然への負の影響を可能な限り回避し、避けられない影響は最小化し、それでも生じる影響に対しては現地での修復を行い、最終的に他の場所での自然再生を通じてネット・ポジティブな影響を達成します。

サプライチェーン管理における自然資本の考慮も重要な要素です。多くの企業は直接的な事業活動よりもサプライチェーン上で大きな自然影響を与えており、原材料調達段階での持続可能性確保が不可欠です。持続可能な森林管理(FSC認証)、責任ある鉱物調達、生物多様性に配慮した農業(有機農法、アグロフォレストリー)、海洋資源の持続可能な利用(MSC認証)など、認証制度を活用した調達方針の確立が進んでいます。

技術革新と自然資本保全

技術革新も自然資本保全に重要な役割を果たしています。衛星画像やドローンを活用した森林監視システム、AI(人工知能)による生物種の自動識別、環境DNA技術を活用した生態系調査、ブロックチェーン技術による原材料のトレーサビリティ確保など、デジタル技術が自然資本の管理精度を大幅に向上させています。

また、バイオテクノロジーの進展により、代替材料の開発(培養レザー、植物由来プラスチック、微生物発酵による化学品製造など)が加速し、自然資源への依存度低減が進んでいます。これらの技術革新は、従来は自然資源に依存していた産業分野での代替ソリューションを提供し、自然への圧力を軽減しながら経済活動を継続する道筋を示しています。

金融業界の自然資本統合

金融業界では、自然資本リスクを投資判断に組み込む動きが活発化しています。自然資本会計の手法確立、生物多様性リスクの定量評価、ネイチャー・ポジティブ投資商品の開発、自然債券(ブルーボンド、グリーンボンド)による資金調達など、金融システム全体で自然資本の価値を適切に評価・価格付けする仕組みが構築されつつあります。

世界最大の資産運用会社であるブラックロックも、投資先企業に対してTNFD準拠の情報開示を求める方針を表明しており、金融市場からの圧力が企業の自然資本取り組みを促進しています。この動きにより、自然資本の保全と活用が企業の資金調達コストや投資家からの評価に直接的な影響を与えるようになっています。

業界別取り組み事例

食品・農業分野

業界別の取り組み事例を見ると、食品・農業分野では再生農業の推進が重点課題となっています。土壌の炭素貯留能力向上、化学肥料・農薬の削減、作物多様性の確保、受粉媒介者の保護など、農業生産性と生物多様性の両立を図る農法の普及が進んでいます。大手食品メーカーは、サプライヤーとの長期契約により再生農業への転換を支援し、持続可能な原材料調達体制を構築しています。

製造業

製造業では、サーキュラーエコノミーとネイチャーポジティブの統合アプローチが展開されています。資源採取の最小化、製品寿命の延長、リサイクル率の向上により、自然資源への圧力を軽減しながら、事業活動により創出された価値で自然再生プロジェクトに投資する包括的な戦略が実施されています。

都市開発・不動産業界

都市開発・不動産業界では、グリーンインフラの整備とバイオフィリックデザインの採用が進んでいます。都市緑地の創出、雨水管理システムの生態系活用、建築物の緑化、都市農業の推進など、都市環境における生物多様性の向上と居住者の健康・快適性向上を両立するアプローチが展開されています。

地域・国際協力の推進

地域レベルでの取り組みでは、生物多様性オフセットや生態系サービス支払い(PES)制度の活用が拡大しています。開発事業により避けられない自然環境への影響を、他の場所での保全・復元活動により相殺する生物多様性オフセットは、適切な実施により開発と保全の両立を可能にします。

国際協力もネイチャーポジティブ実現の重要な要素です。生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)で採択された地球規模生物多様性枠組では、先進国から途上国への年間200億ドルの資金支援目標が設定されており、技術移転、能力構築、制度整備を通じた国際協力の強化が求められています。

測定・評価と人材育成

測定・評価手法の標準化も重要な課題です。自然資本の価値評価手法(生態系サービスの経済価値化)、生物多様性指標の統一、インパクト測定手法の確立などが国際機関、学術界、産業界の連携により進められています。Science Based Targets Network(SBTN)は、科学的根拠に基づく自然目標設定の手法を開発しており、企業が具体的で測定可能なネイチャーポジティブ目標を設定するためのガイダンスを提供しています。

人材育成も産業発展の重要な基盤となっています。生態学、保全生物学、環境経済学、自然資本会計などの専門知識を持つ人材の需要が急増しており、大学での関連カリキュラムの拡充、企業内研修の実施、専門資格制度の整備などが進められています。

未来展望と企業価値創造

ネイチャーポジティブ経営の未来展望として、2030年までに自然と調和した事業モデルが主流となり、自然資本の価値が適切に市場価格に反映される経済システムが確立されると予想されます。この転換により、自然保全と経済発展の対立構造が解消され、両者が相互に強化し合う持続可能な経済社会の実現が期待されています。

消費者行動の変化も市場環境に大きな影響を与えています。特に若年層を中心に、製品・サービス選択における環境配慮の重要性が高まっており、企業のネイチャーポジティブへの取り組みがブランド価値と競争優位性に直結するようになっています。企業にとって、ネイチャーポジティブは新たな成長機会の源泉であり、長期的な競争優位性を確保するための必要不可欠な経営戦略なのです。